スタートから、技の切り売りで名利を求める、そうした生き方を私は否定してきました。そして自分の体験を通して、「このままではいけない」と考え至ったことを、思うだけではなく実行しようと少林寺拳法を始めた。
日本人は、他の民族よりも優れている、偉いだなんてバカなうぬぼれ。死んでも国や天皇、上にだけ忠を尽くすことをよしとし、個々の人間教育。縦にしか結束できない、横のつながり、団結が持てない人間関係…。そうしたこれまでの日本、日本人のあり方を、私なりの方法で、少しずつでもいいから変えていきたい。日本人同士だけじゃない、いろんな国の人たちと仲良く生きていける社会をつくりたい。
言葉を換え、それぞれに近づけ言うなら、「己自身をまず対象にした人間改造」、これですね。しかも人によって人生の転機は異なるから、それが何であれ、きっかけ、つまり自分を変えていこうとするときに必要となる手がかり、とっかかりは各人各様、何であってもいいと私は思ってる。
たとえばうちの、互いに合掌し手を握り合い始める練習の形。手を握り合ったり抱き合ったりは、普通は知り合い仲よくなろうの意思表示です。またより深い意味を込めて言うなら、ときには相互理解や協力、和解のしるしともなり得る、意義ある行為でもある。だったら単なる習慣、白々しい一動作にしてしまうのではなく、こうした行為の持つ価値を、折に触れ振り返り考えてしかるべきだよな。
己と他との関係、我も存在するが我以外の、自分とはさまざまに違った他も存在するという、このわかりきったようですぐ忘れてしまう人間社会の事実を認識していく。しかも自他共楽の存在・関係を認識する仲で、自分のことだけでなく、せめて半分は他人の気持ちやら幸せを考えられる人間に自らを変えていく。これが私たちの在り方だし、私との出会いが、そうした自己変革への一つの契機になってくれればいいということです。
(1973年10月、指導者特別講習会)