▼『教範』に、「勇怯(※)は生まれつきたる性により、また習わしによる。生まれつきも習わしによりて変じ、勇となり怯となる。習わしを選び習わしを慎むべし」という江戸時代の儒学者・貝原益軒の言葉が紹介されています。生まれつきの性格も習慣によって変わるのだから、日々の言動はどうあるべきかを考え、正していくことが肝心だというのです▼本来、自分を変えたい修行者にとっては、道院だけでなく、日常そのものが修行の場です。例えば、理想とする「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」という生き方が身についているかというと、そうしているときもあれば、すっかり忘れて自分勝手だったりするときもあります。「半ばは……」の教えはわかっていても、しっかり身にはついていないのです▼入門して学び、わかったつもりのいろいろの教えも、日々の「習わし」としなければただの知識にすぎません。つまり、日常こそが教えを実践する修行の場ということです。「人に言われればする」のでなく、「ときどき思い出してする」のでもなく、「いつもそう思いそうしている」のでなければ、本当にわかっているとは言えません。それは無意識レベルの心のあり方です。無意識での言動をつくり替えるのですから、それにはただの知識や理解だけでなく、日々の体験による積み重ねや訓練、つまり修行が欠かせないのです▼とはいえ、日常のものごとは複雑かつ多岐にわたり、人とのやりとりも大変です。やっかいな現実の中では、わかったつもりの教えもつい忘れがちです。そこで、金剛禅には道院があります▼自分を変えたい修行者にとって、道院は「日常での修行を支える修行の場」とでもいうべき場所です。例えると、日常は約束ごとのない「運用法の世界」のようなものです。対処の基本が身についていないと、思うようにはいきません。かたや道院は「基本法形の世界」のようなものです。教えを知る人たちが、正しい言動のあり方を意識して、訓練を共にできる場所です▼中でも少林寺拳法の演練は、自他の最小単位である二人でのやりとりを通して、他者への適切な対応、心の持ち方を学び、習慣化する訓練です。日常では見落としたり、やり過ごしたりしている自分中心的なふるまいも、修練ではきちんと向き合い、修正も可能です。しかも、相手の協力も得られます。もちろん、鎮魂行も法話も、作務もすべてが「日常の修行を支える修行」です▼そして道院が修行の場であることをさらに意識させるのが、正面に置かれた本尊、達磨大師の像です。少林寺拳法が達磨大師ゆかりの修行法であることを知る修行者にとって、大師の像は、道院が修行の場であることを常に意識させる、いわば重要なきっかけやキーワードの役目をしています▼かつて開祖は、若い修行者たちによく「君らは達磨の子なんだぞ」と語り、自己確立などの修行の意義を説いておられたそうです。なおさらのこと、道場の正面でにらみを効かせる大師の像は、修行者たちにとっては敬うべき修行の先達や祖師であり、ただの偶像や置物ではなかったことでしょう▼「人に言われればする」のでなく、「ときどき思い出してする」のでもなく、「いつもそう思いそうしている」人になろうと努力する。それが修行者の基本です。そうであってこその道院であり、易筋行も鎮魂行も法話も、そして達磨大師の像もただの形式でなく、正しくその役割を発揮するのです。
(執筆 坂下 充)