金剛禅総本山少林寺
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どれも自分を育ててくれる栄養と捉える

いかに拝もうが頼もうが、人間死ぬときには死に、できないときはできない。つまり、最後は誰であろうと必ず死に至る問題を含め、人は常に限りある中で生きてる、これが現実です。でも、だからこそ、たった一度しか命を持てない人間一人ひとりの生き方・あり方に大きな意味が出てくる。ならば「われ、かく思う」こと、やってみるほうが価値がある。また、そういう自覚の上での悲喜こもごもなら、どれも自分を育ててくれる栄養と捉えることができる。
「自分で自己というものを発見し、己を信じ、また信じるに値する自らを確立する」
 何かが足りない、何かが不安だ。世の中どこかおかしい。そういう欲求やら不満、疑問が、意識されてるかはともかく、心の片隅に絶えずあるからじゃないのかな。しかも結論を言うなら、その何かは往々にして最後まで十二分にわからず、疑問は解けず、明日さえ知れないのが人間。「ゆえに生きてることはおもしろい」と。もっとやさしく言うなら、例えばだよ、「何月何日、俺は誰々と結婚し、三年目の何日に別れる」なんて最初からわかっててみろ、私なら恋する気にもなれない。
 要するに、「どうなるかわからないから、いっちょうやってみようじゃないか」、なんだよな。また、やってみていかなんだら、何度でもやり直す気力も大切ですね。これも身近な例えで言うなら、「愛してると思って一緒になったのに、どうも違ってた。うまくいかない。私は実践したけど…」。だったら、こらえていがみ合ってるより、いっそ別れたほうが互いの幸せにつながる。それを面倒だからあきらめるでは、これ、もっとひどい泥仕合になりかねません。
「今はこうしよう」と決めたことを、正直にしてみる。たとえ失敗してすべてを失うはめになろうが、さっきから言ってるように、それでもまだ死んだわけでもないんだから、次への踏ん張りのチャンスはまだまだあると、そう考えればいい。そして、そういう生き方の基本をつかめば、目先の小事でクヨクヨしたり、将来にただ漠然と不安を感じてうろつくような生き方しないですむ。
(1975年3月、大学合宿)