金剛禅総本山少林寺
道院長・門信徒ログイン

一人が二人に、二人がいつか十人に、そう願い少林寺拳法は動いてる

私は権威主義者ではありませんから「管長の鶴(つる)の一声(ひとこえ)で決まる」式のやり方は嫌いです。ましてや私をダシに、「俺の言うことは管長命令と同じである」はもっと嫌いです。
君らが納得し「なるほど」と思えるものでなかったら、聞きかじりの「そうだ、そうだ」なんて意味がない。また本物でないものは長続きしないのです。
人間らしい人間でありたい。そうした欲求を持とうとも思わないなら、ここにおってくれなくていいんだぞ。今、少林寺拳法が成功している最大の理由は「少林寺拳法をやることによって人間が少し変わってきた」、そうした現実があるからじゃないのか。一(いっ)挙(きょ)には無理にしても、ですからせっかくやるなら極力高いところに目的を置いて、そこへ一歩でも近づく努力をすべきである。
同じことをしても反対方向へ歩いてく人もいます。いつの間にか体育会的、武道家的存在になって生涯を送る、そんなことにならないでほしい。
君らに聞きたいが、上手に拳(こぶし)振り回したとこで何なんだ。そのことで人としての人生のどこが、どう変わるだろう。ある時期、ある人たちからだけは「あの人すごい」といわれるかもしれない。
…でも少林寺拳法はそこを脱皮し、もっと違うものを作り出そうとしてきた。われわれのような勉強や考えることの苦手な人間には、あまりに高邁(こうまい)な理想を掲げた難しい挑戦かもしれない。けれど、そういう志を持ったグループがあったっていいと君らも思わんか。
己だけの正義や理屈を唱えるのはいやらしいだけだが、半ばは他人(ひと)の幸せも、よその民族の幸福も考えられる人たちが一人ずつ一人ずつ増えてってみろ、またそうした人間を育てる生き方をしてみろ、すばらしい意味ある日々につながる人生が開ける。一人が二人に、二人がいつか一〇人に、そう願い今日の少林寺拳法は動いてる。他に影響を与えるものを持っている。他が協力してくれるものを持っている。ならば金魚の糞(ふん)にとどまるな。
(77年9月 指導者講習会)