金剛禅総本山少林寺
道院長・門信徒ログイン

前を向きつづけるために

▼相変わらず社会では、不届き者による 「自分たちさえよければいい」 とか 「ばれなければいい」 というたぐいの事件や出来事があとを絶ちません。そうした中、道院ではあるべき人としての生き方やあり方を説いています。私が子どものころは、こっそり悪さをしたりすると、あとから祖母に 「神さまは見ているぞ」 「罰が当たるぞ」 とよく言い聞かされたものでした。内心では 「どうせ迷信だ」 くらいに思っていましたが、しかし、神や仏といった人智を超えた存在はすべてをお見通しで、悪事はいずれ自分に返ってくるという物語は、小さな子どもにはそれなりの教育効果があったように思います。▼金剛禅ではどうでしょうか。鎮魂行で唱える 「道訓」 には、「心にはずる処なくば、神仏にもはずる処なし」 とあります。人は本来、誰もが尊い存在であり、その心そのものがいわゆる神や仏なのだから、心にやましいことのない生き方をしよう。そうすれば、誰が見ていなくても、おのずとより良い人生を送ることになる、というのです。さて、道院ではいつも 「道訓」 を唱えるのですが、日々の言動はどうでしょうか。あからさまな悪事はしないにしても、つい 「これくらいだったら」 と自分勝手にふるまったり、手を抜いてまわりに迷惑をかけたりして、あとで恥じたり反省したりすることもままあるのではないでしょうか。▼あるときの法話で、開祖は苦笑いされながらこんな話をされていました。「道訓」 の中に 「…朋友を信じ」、つまり〝友人を信頼し〟という一節がありますが、ご自身の話として、長い付き合いのある後援者と意見が対立して口もききたくなかったとき、いつもここで声が詰まった、というのです。唱えながら、自分はどうかと問うておられたのでしょう。▼あるべき人としての生き方やあり方を知ってはいても、実生活はなかなか理想のようにはいかないものです。しかし、そのことに何の痛痒(つうよう)も感じない人もいれば、開祖のようにささいなことでも心に引っかかる人もいます。書店にもネット上にもたくさんの教えや生き方を紹介する情報が出回っていますが、すぐれた教えが世に(あふ)れるだけで人や社会が良くなるわけではありません。「知っているということと、できることとは違うぞ」 と開祖も言われたように、知識もさることながら、日々の言動こそが肝心だからです。▼人は本来、誰もが尊い存在であるとはいうけれど、はじめから完璧な人間なんていないはず。恥じたり反省したりすることがあって、そんな自分にへこんでも、七転び八起きの精神でやましいことのない生き方をしようと前を向きつづけることこそが、本来尊い存在である人間としての証だと思うのです。金剛禅的に言えば、「もって生まれてきた可能性の種子(ダーマの徳性)を開花結実させる」 ために道院はあるのです。(執筆 坂下 充)